2018-06

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17・18 「愛の法則」

ここに転載させていただきますのは、昨年出版されたヴィセント ギリェム氏の、
著書『魂の法則』の後に受けた、高次からのメッセージ『愛の法則』です。

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著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ氏

転載元
転載元

17 愛の法則から見た隣人愛

*その点について、具体例を出していただけるとありがたいのですが。

君に話していることについてのたとえ話をしよう。

とある霊性の学校の教室において、一人の先生が百人の生徒の集団と共にいた。進化の過程の一環としての様々なエゴの段階―虚栄心(見栄)、自尊心(プライド)、自負心(尊大)―と、それぞれの段階でエゴがどのように顕現するかを学んでいた。全学習の最後のまとめとして、先生は、「虚栄心の最大の特徴は自分が主役になりたがる傾向で、他の人以上になりたいと思うことだ。自尊心の最大の特徴は、あるがままの自分を知られるのを怖れることだ。自負心の最大の特徴は、この中では一番謙虚であるとはいえ、まだ完全に謙虚になりきっていないことだ」と述べた。

 先生はこの説明の後に、これまで学んだことに照らし合わせて、自分が以上の三つの段階のどこにいるのかを考え、各自それを紙に書くようにと生徒に指示を出した。次に、その紙を回収箱に入れるように各生徒に伝え、教室の進化レベルを全体的に分析するために、数を調べてみようとした。
 用紙の数を確認して結果を調べた先生は、生徒たちに、「君たちのうちの80人が虚栄心の段階で、19人が自尊心の段階にいる。自負心の段階にいるのは、たった一人だけだ」と告げた。

 その結果に驚き不満を覚えた生徒たちは、皆でひそひそ話をし出し、お互いに、自分自身にどういう評価をしたのかと尋ね合った。そして意見の一致をみて代表を選び、その生徒が先生に、アンケート結果に納得しかねる旨を表明した。「先生、僕たちはお互いに各人が紙に何て書いたのかを尋ね合ったのですが、先生が仰る結果と一致しないのです。というのも、あなたは自負心に相当する人は一人だと言われましたが、少なくとも10人がそう自己評価しているのです」

 それに先生は、「納得できないのなら、君たちが数を調べてはどうかね」と応じた。そこで生徒たちが用紙の入った回収箱を引き受け、数え直したところ、80名の生徒が自分を自負心の段階だとしており、19の白紙回答があり、一人が虚栄心の段階だと見なしていた。

 結果が明らかになると、生徒の代表が次のように発言した。「先生、ご覧になりましたか? 僕たちの言った通りでしたよ。お伝えした通り、僕たちの大半が自負心の段階にいるとしていますよ」
 すると先生は「確かに君たちの回答結果は合っているのだが、それが本当の結果ではないのだ」と返答した。
 代表になっていた者は「仰ることがわかりません」と言った。

 それに対して先生は、喜んで答えた。「今すぐに君たちに説明しよう。自負心と回答した80人は、本当は、自己顕示が好きで他の人以上になりたがる段階の虚栄心のレベルにいるのだ。自負心が一番上のレベルだと知り、最後ではなく何でも一番になりたいので、自己を上級レベルと同一視した。白紙で出した19名は、実のところ、自分を知られる怖れが特徴的な自尊心の段階にいる。白紙で提出したのは、自分を知られるのが怖いからなのだ。唯一虚栄心に投じた人が、実は、自負心の段階にいる者だ。確信が持てない場合に一番下の段階を選んだので、全員の中では最も謙虚な人である」


*謙虚さに欠けるのが自負心の特徴ではありませんでしたか?

 謙虚さの欠如はすべての段階で見られる。虚栄心でも、自尊心でも、自負心でもだ。他の二つよりも進化が遅れている虚栄心の段階では、最も顕著なのである。
 だが、真に謙虚になりきることは非常に困難なのが実情である。自負心の段階にいる魂たちでさえ、まだ尊大のエゴを完全に抜け切れてはいない。自負心とは謙虚さに欠けることだと言ったのは、他の欠点を克服しており、これが越えるべき主な欠点として残っているからである。一方、虚栄心と自尊心には、謙虚さの欠如の克服に取り組む前に、乗り越えるべき他の欠点がある。

 謙虚さに欠くことを自覚しているだけで、自負心の段階に到達したと思っている人たちがいるが、それは尊大であることを率先して自覚したいからではないのだ。単に、自負心が自尊心や虚栄心よりも進んだレベルであるがゆえに、自分を他の人たちよりも上位の、霊性進化の最上階にいると思いたいだけなのである。他の人たち以上になりたがり、誰の下にもなりたくないというこの特徴こそが、虚栄心独自のものである。


*まだはっきり理解できていないので、前述のお話の教訓を正確に説明していただけるといいのですが。

 あの話で明らかにしたかったのは、自分自身のエゴを認めることは非常に難しいということだ。だから君たちは、改善のための真の努力をするよりも、エゴが見えないようにごまかすのに一生懸命だ。
 だが、それでは君たちは否応にも停滞してしまう。自分のエゴを認めようとしない者は、それを克服できないからだ。
 君たちは、手を差し伸べてくれて、君たち自身にどういうエゴが顕れるのかを教えてくれる人たちの助言を、嫌がって受け容れようとしない。耳に心地よい賞辞ばかりを貰いたがるが、真実は聞こうとしない。君らを褒めてくれる人たちのことは称えるが、成長できるようにと本当のことを言ってくれる人たちのことは非難する。これでは、前進は困難だ。


*でも、僕たちは霊的な覚醒の時代を生きていて、他の人たちのために何かをしたがっている人が沢山いるのではありませんか?

 今日では、霊性を目覚まして、他の人たちのために何かをしたいと言っている人は大勢いる。それ自体は善いことだ。しかし、他者を助ける以前に、自分自身をよく見つめ、それをしたいのは他者を助けるためなのか、それとも他者から称賛や認知されたいためなのかを知るべきである。
 もし後者であれば、何もしない方がよい。まず自分自身を眺めて、自分の力がどこまで及ぶのかを見てみることが必要だ。人びとを助けるのは簡単なことではなく、大変な修練が必要となる。能力がなければ、些細なことで嫌になるし、他者を助ける代わりに混乱させてしまうことになる。


*あなたの言葉からは、各人にはそれぞれの愛する能力があり、全員が他者のために同じことができるわけではない、というふうに理解しますが、本当に隣人を愛したいと思った場合に、人が最初にしなければならないことは何でしょうか?

 第一歩は、自分自身のエゴを認め、他の人に対してエゴ的に振舞うことを避けようと強く決意することだ。この経緯をなくしては、もっと進歩した段階へと上れない。自己の内面を掘り下げ、エゴ的な部分を認識しようと努める者はめったにいない。そのため、道程の最初の箇所で行き詰ってしまい、それ以上は一歩として進んで行けないのだ。
 必要とされる霊的な援助を受けながら、正しいやり方で、他者を助ける役目を開始する人たちは存在する。だが、往々にしてその人たちは、その立場が心地よいので、授けられるもので満足せずにもっと貰いたがり、自分の能力以上のものを欲しがるのだ。

 しかし、内面の能力とは、一朝一夕に向上するものではない。大変な努力と長い進化の時間を要し、多くの転生でたゆみなく、エゴを排除して愛の感情を発展させていくことが求められる。だが、このような個々の努力を多くの人が避けたがる。皆、魔法によって、杖で触られるだけで、天才的な力を持った魔法使いにしてほしいのだ。そして愛だけで自分を満たすことをやめ、他者の称賛や感嘆を求め、野心を持ち、願望が現実だと信じ込むようになる。
 そうなると自らのエゴによって、エゴが招いている思考を霊的なガイドからのメッセージだと勘違いし、人の注目を浴びたいがためにしていることを、他者への奉仕だと思い込むに至る。霊的に進化することはどうでもよくなり、そう見せかけるだけになる。

 この危険性を、よく認識できている人もいるが、エゴはとても巧妙かつ示唆的に、我々を言いくるめるものである。そのことをよく自覚していないと、霊的に進歩していると思っても、実際には自分のエゴを増長させているだけになる。隣人愛を育む上で、特に邪魔になるエゴの形態があるので、それと闘わないでいると、隣人への愛の試みを、隣人を利用する試みに置き換えてしまうことになる。


*隣人愛を育む上で邪魔になるエゴの形態には、どんなものがありますか?

 邪心、妬み(嫉妬心)、野心、偽善、主役になりたがる傾向、傲慢である。


*それらを今見てみることができますか?

 よかろう。


*では、邪心について話してください。

 邪心や悪意は、わざと痛手を与えようとする意思や意図を持って行動する者を、定義する時のエゴ的感情である。当人はそのことを意識していて、他者を苦しめることに満足や快感を覚える。悪巧みをする人は、見つからないように、最大限の弊害を与える策を練ることに知恵を働かせて、偽善をも増長させている。邪心は、妬みや野心といった他のエゴ的感情で培養されるので、悪巧みをする人は、同時に妬み深く野心家であることが多い。


*妬みについて話してください。

 妬みとは、自分が欲しい何かを持った人たちに対する嫌悪や反感として顕れる、エゴ的感情である。その何かとは、物的な所有物であることも、物的・知的・霊的な資質である場合もある。
 つまり、相手の持つ富(物的な所有物)を妬むことも、美貌(物的な資質)や知性(知的な資質)、善良さや愛する能力(霊的な資質)を妬むこともあるのだ。

 妬みは、他の人以上になりたいという願望から生まれるので、虚栄心に際立って見られる。他の人以上になろうとするので、常に自分を他人と比較することになる。嫉妬心に囚われた人は、妬んでいる相手を蔑んで損害を与え、批判するためであれば、どんな策でも弄することができる。嫉妬深い人は他の人たちの不幸を喜び、他の人たちが喜んでいるのを見ると残念に思う。


*霊的な成長の様々な段階で、妬みは同じ形で顕れるのでしょうか?微妙な違いがあるのでしょうか? 

 多少の違いはある。
 物的な物事に対する妬みは、虚栄心の初期の段階から虚栄心の進歩した段階までの特徴であることが多いが、霊的な資質に対して目覚める妬みは、虚栄心の進歩した段階から自尊心、あるいは自負心に至るまで見られる。
 虚栄心の進歩した段階にいる者は、物的なものも霊的なものも妬む。自尊心のある者は、特に霊的なものと愛情に関するものに嫉妬する。


*妬みは、虚栄心(見栄)のある人に具体的にどう顕れますか?


 見栄っ張りな者は、自分にない財産や資質を所有する人を妬む。
 嫉妬深い見栄っ張りは、妬んでいる相手の悪いイメージを創り出すために、人前でその人を侮辱し、悪口を言い、批判する傾向にある。つまり、自分がその相手の被害者なのだと他の人たちに信じさせるためや、その人への攻撃を正当化したり隠蔽するために、事実を曲げてしまうのだ。暗示や操作、犠牲者のふりや嘘と偽りで、妬んでいる相手を貶めるという狙いを果たそうとする。
 その方法で目的が達せられ
ないと、言葉の暴力、脅迫、恐喝、強制、さらには肉体的な暴力などの、もっと直接的な手段に訴える。理があるのは自分だと自分自身を納得させ、自己の憎悪や反感を正当なものだと信じている。何よりも自己の願望を満たすことを優先し、他の者に及ぼす損害は気にかけない。


*では、自尊心(プライド)のある人にはどう顕れますか? 具体的に何を妬むのでしょう?
 
プライドの高い者は見栄っ張りな者とは反対に、物的な所有物を持つ人を妬みはせず、愛情が絡む物事を妬みやすい。プライドの高い者が妬む最大の要因が、愛情に関するものなのだ。まだ愛する対象に出会っておらず不幸に感じていれば、他の人たちの間に存在する愛の感情を妬むことがある。
 
例を挙げてみよう。嫉妬深いプライドの高い者が、ある人に恋をしたとしよう。もしその人が気持ちに応えてくれず、他の人を愛していたとしたら、嫉妬深い者は、自分が欲しいものを相手が持っていると思い、愛の受け手を妬む。つまり、自分の愛が奪われたと思うので、自分の競争相手だと見なした人に対する反感が目覚める。

 プライドの高い者は、愛情への嫉妬に囚われると、自分の本当の感情を知られまいと懸命になる。他の人に自分の気持ちを隠し、その裏で欲しいものを手に入れようとするが、拒絶されるのが怖いので、はっきり意思表明をすることがない。愛していると思っている人を獲得するために、ライバルと見なす相手よりもいい点数を稼ごうとする。褒め言葉、礼儀正しい態度、ほのめかし、魅力、説得などを駆使する。
 
だが、欲しいものを手に入れるのが不可能だと、自分の殻に閉じこもって、悲しみ、憤り、無力に浸る。孤立し、その状況から立ち直るために差し伸べられる援助を拒む。一方、もっと感情について知っていて、その知識を使って感情を痛めつけることができるので、虚栄心のある人よりも相手に深い傷を負わせられる。
 
たとえばカップルの間に不和を生み出し、自分の愛の対象となる人に、その人が実際にはパートナーから愛されていないと思わせるために策を練ることもある。二人の間に疑いの種を蒔ければ、それを利用して、後釜に座ろうとする。嫉妬で盲目になり、愛すると思っている人の自由意志を侵害していることなど意に介していない。相手の意志も、その人が自分ではなく別の人を愛していることも尊重できていないからだ。



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18 愛の法則から見た隣人愛

*妬みはどのように乗り越えますか? 

初めに、自分が妬んでいることを認めること。自尊心のある者は、虚栄心のある者よりもエゴ的感情をよく理解しているので、妬んでいることを自覚できる。
 残念ながら、妬みは、君たちの世界で頻繁に見られるエゴ的感情である。しかも、大多数の者は妬んでいることを認めたがらないので、停滞してしまうのだ。自己の悪癖を認識しない者は、それを修正することができないのである。
 妬みを克服するには、他の人たち以上になりたいという願望を放棄する必要がある。

他者の持ち物を所有したいという欲望を放棄し、幸福になれるかは自身の資質と感情とを覚醒できるか次第で決まるので、人から何も奪う必要はないと気づくことだ。
 邪心や妬みも、大なり小なり他者を拒絶すること―毛嫌い、嫌悪、恨み、憎悪に至る―であり、隣人愛とは正反対の一番邪悪なエゴ的感情を培養するので、幸せになる代わりに不幸の主原因である心の病気になりやすい。望むものを手に入れるのが不可能だと、憤り、無力感、悲しみが生まれる。


*では、どうやって邪心を克服するのですか?

 これは理解や自覚によって解決するのが難しいエゴである。邪心を患う者は、自分が痛手を与えていることを完全に自覚しながら行動しているからだ。邪心のある者は、苦悩を生み出すことに執念を燃やしている。他者にしたことを自分が身を持って苦しんでみるまでは、改悛の情を持ち始めることがない。

 こうして気弱で無防備な状態になった時に、かつて自分が犠牲にした人たちから利他・無条件の愛の行為を受けると、思考回路が覆り、決定的な変化を遂げさせる一打となる。常に計算づくで動くことに慣れているので、自分がこっぴどく痛めつけた人たちが復讐のチャンスがありながら、赦してくれて手を差し伸べてくれるのが理解できないのである。
 彼らの邪心が溶解して、過去の自分の犠牲者たちへの揺らぎない忠誠心に取って替わるのは、この時である。彼らが恩赦にも救済にも値しないと知っていたにもかかわらず、赦してくれて、助けを求めた時に救ってくれたからである。


*今度は野心について話してください。

 野心とは、所有または支配したいという強力な願望である。
 野心の対象が物的な形態であれば、強欲や貪欲の形で顕れる。つまり強欲や貪欲は、実際には野心の変種なのである。
 領土や人に対する権力欲や支配欲も、野心の別の異形である。
 野心家は、何でも人の上位に立つことを狙い、誰にも主導権を握られたくないので、嫉妬深い人でもある場合が多い。
 野心家は、手に入れていくもので絶対に満足せず、飽くことなき所有欲を益々募らせていく。目標としたものを獲得するにつれて、幸せになれると思っているが、目指すものを得るとそれで納得せずに、常にそれ以上のものを欲しがる。そうして、もっと過度で獲得困難な目標物を探し出す。


*でも、世界平和や飢餓の撲滅など崇高な目的を野望に抱く人たちもいますが、正しい行為ではないのでしょうか?

 それらは野心ではなく、大望である。野心と大望という言葉のここでの意味づけの違いは、野心は崇高な概念に基づかないとしていることだ。
 野心家は、利己的な考えで動き、行動する際に良心の咎めを感じにくい。自分の持っているものでは決して満足せずに、所有したい、支配したいという熱意は留まることがない。つまり、野心は飽くことを知らず、過度になっていく。野心家は倫理的・道徳的な紀律を全く尊重せず、目的は手段を正当化すると考えているので、自由意志を大切にできない。そのため、往々にして自分の見解を人に押しつけ、失敗を認めたがらない。
 見込みが外れると激怒し、目的を達するために、さらに攻撃的で有害な手段に訴える。つまり、自分の欲しいものを正当に手に入れられなければ、不当な手段で獲得するのだ。だから、他の人たちに損害を与えずに野心を満たすことは難しいのである。


*野心はどう克服しますか?

 所有したいとか支配したいというような強力な願望では幸せになれるどころか、自分自身に動揺と不安を生み、他者にあらゆる苦悩を与えると気づくことだ。行き過ぎた野心は、極度に有害なエゴが現れ出たものである。過度の野心に支配された人は、人類に最大の弊害と苦悩とをもたらすが、同時に、自分自身でも大きなカルマの負債を負う。
 人類の最大の犯罪者は、この物質界の所有者になろうとして、思いのままに政治や国際金融の糸を操ってきた権力者たちである。世界支配を渇望し、自分たちの富と権力を増やせるのであれば、何百万という人たちに苦悩や死を引き起こす決定にも躊躇しない。だが彼らは、自分たちが生み出した苦悩が全部、霊的次元に戻った際に、自らの身に降り注いでくることに気づいていない。

 一生懸命獲得したものは全部、一切合財、物質界を去る時に失うことになり、霊界に移った時に待っているものは、カルマの巨大な債務である。そして、他の人びとに与えたあらゆる苦しみを、自分の身を持って味わうことから返済していくのだ。彼らの魂は犯した罪を全部修復し終えるまで苦しみ続けるが、それには大変長い時間がかかるので永遠に思えるほどである。


*次は偽善について話してください。

 偽善は、それ自体がエゴ的感情というより、虚栄心の顕れである。それは、いいイメージを与えようとして、実際には違うもののふりをすることだ。偽善者は霊的な進化を望んではおらず、褒め称えられたいために、そう装っているに過ぎない。自己変革をしようとせず、世間体を繕っているだけなのだ。それゆえ偽善は、霊的進化の大敵である。自己のエゴの改善や排除の努力をせずに、エゴを隠して、偽りの慈善のイメージを人に与えるからだ。狡猾に行動して、他者のためになる本当に善良な人だと思われようとするが、実際には自分自身のエゴを満たすために行動する人たちである。

 偽善的な態度は、政治においてよく見られる。特に選挙の時期にはそれが顕著で、候補者は誰もが投票してもらおうとイメージ作りに熱心で、市民の状況を改善しようと望んでいるふりをする。だがひと度権力に就くや、自分自身や恩がある者への利益を優遇する。
 これは政治に限ったことではない。あらゆる分野で、本来の自分とは異なった顔をして、他者を利用する傾向にある。他者を愛するふりをしながら、その外見的な善意の陰に、人から認められたいとか、名声・富・権力への願望など、利己的な目的を隠している人が大勢いるので、偽善は人類愛の大敵である。


*本当に善意で行動している人と、ただそう見せかけたい人とをどう区別したらいいですか?

 善意の人は正直に利他の精神で行動し、言うことと行うことが一致している。偽善者はふりをしているだけで、言ったことと全く別のことを行うなど、常に矛盾している。これで違いは明らかだ。
 たとえば、謙虚だと自慢しがちであるが、本当に慎み深い者は、他者のために良いことを行っても自慢したりしない。それを行うだけで充足できるからである。だが偽善者は、何らかの見返りを貰えない限り、誰のためにも何もしない。偽善者はいつかはミスを犯し、その利己的な目論見が露になる。その時に、化けの皮が剥がれてしまうのだ。


*偽善を乗り越えるためには何をしたらいいですか?

 最初にそれがあることを認め、打ち克つ努力をしなければならない。また、生涯にわたって芝居を続けるのは疲弊することで、虚しさを生み、それゆえ不幸になると気づくことだ。霊界では自分を偽ることは不可能で、人は見せかけたいと思うようにではなく、それぞれがあるがままに見られるので、霊的な視点からも無駄で無益な努力である。
 偽善は他の人たち以上になりたいという願望から生じるので、虚栄心と主役になりたがる傾向との関係が深い。その願望を手放せれば、偽善を克服できるかもしれない。


*次は、主役になりたがる傾向についてお話いただけますか。

 主役になりたがる傾向については前にも話したので、ここではあまり取り扱わないことにしたい。繰り返しになるからだ。
 要約すると、主役になりたがる傾向は、注目の的になって注意を引き付けたいという願望である。これは虚栄心の段階で一番強く見られるもので、名声や成功、他者からの称賛や賛辞への願望となって表れる。
 この傾向は自尊心と自負心の段階でも表れるが、その場合は、愛情不足や愛されたいという願望が原因であることが多い。自尊心や自負心のレベルにいる人たちが自己顕示欲が強いと、傲慢になる。傲慢な人は、他の人たちに勝っていると感じていて、優越的、高圧的に行動する。


*人から好かれたいと思うのは別に悪いことに思えませんが。

 好かれたいのも悪いことではないが、それが正しいやり方ではないのだ。何かの見返りを期待して行動する人は、それが得られらないと失望したり怒ったりするので、他者のためだったのではなく、利益のためであったとわかる。本当に愛する者は、人から認められる必要もなく、人のために行動するだけで満たされる。
 それに、私たちを好きになるかを決めるのは我々ではなく、相手の意志次第であることに思い至らなければならない。相手にしてしてあげたことへの感謝の意として、私たちに対する好意を要求することは、その人の自由意志を侵すことになる。


*主役になりたがる傾向と傲慢とは、どう克服すべきですか?

 謙虚になる練習をすることだ。


*では謙虚さとは正確には何でしょうか? 定義できますか?

 謙虚さとは完全に正直に包み隠さず率直に行動でき、自己の美徳を自慢せずに自分の欠点と過ちとを認められる人に特有の、霊的資質であると定義できる。霊的に人の役に立つためには、謙虚さという資質を伸ばすことが欠かせない。謙虚でなければ、自画自賛や自己崇拝に陥ったり、自惚れたり傲慢になってしまう。


*謙虚さに欠けると、どうして自画自賛や自惚れ、傲慢になるのですか。  

 他者の支援に関心のある人がどんどん皆の注意を引き付けていっても、当人が謙虚でなければ、きっと自分自身に陶酔して失敗することだろう。大勢の人びとの注目の的であると感じれば、必ず主役になりたいと思う気持ちが暴走する。自己のエゴをよく内省してみなければ、他の人よりもすごく、勝っていると思い込んでしまうのだ。
 この時、何よりもこの人の動機となっているのは、もっともっと沢山の人たちからの注目・称賛・賛辞を獲得したいということだ。もっとも良識的なやり方で大変巧妙にやれば、霊的な内面を把握する能力の大きい魂にしか最初は気づかれないかもしれないが。

 また、より高い霊的な素質を示す人たちを自分のファンを奪うライバルだと見なして、その人たちへの妬みが芽生えることもある。比較されることによって当人の欠点が歴然とする場合は、狡猾かつ悪意を持ったやり方で、その人たちを卑下しようとする。
 往々にして、自分の直属の特権的なポストに、充分な能力はないものの言うことはよく聞く従順な部下を配置する。こうなると、人の役に立ちたいという動機は二次的になり、より多くの信奉者を獲得する抗弁として使われるだけとなる。
 こういうことが起こるのは、謙虚さを育まなかったからである。つまり、完全に正直に包み隠さず率直に行動せずに、欠点(主役になりたがる傾向、傲慢と妬み)を認めることもなく、自分の徳だと思っていることを自慢するからである。


*そういう見方をするなら、隣人愛や人助けは不可能に思えます。主役欲に囚われることなく求められる謙虚な状態に達するのは、非常に難しいです。一体、エゴの罠に陥ることなく、隣人を愛したり、人を助けることができるのでしょうか?

 もちろんできるとも。心からそう望み、自分自身のエゴを見張って、エゴが顕れた時に気づいて、意思を支配されないように頑張るなら可能となる。
 自惚れたり思い上がったりせずに自分自身の能力をわきまえて、それ以上のことをしようと望まないことだ。人助けをしようとする場合に、皆より目立ちたいというのが目的であってはならない。また、他の人たちが行っていることと競い合っても比較してもならない。単にそれが誰かの役に立つかもしれないことだけで、満足して行動すべきである。これが、無条件の愛に向けて確実かつ安全に歩を進める秘訣である。

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