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2018-09

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19・20「愛の法則」

ここに転載させていただきますのは、昨年出版されたヴィセント ギリェム氏の、
著書『魂の法則』の後に受けた、高次からのメッセージ『愛の法則』です。

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著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ氏

転載元
転載元


19 愛の法則から見た十戒 1

「愛の法則」から見た十戒

※ (注) 十戒とは、モーゼに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山で神から授かったとされる10の戒律で、旧約聖書では、申命記5章と出エジプト記20章に記載されている。プロテスタントやカトリックなど宗派の違いで多少内容が異なるが、「愛の法則」では、スペイン・カトリック教会の教義の十戒をとりあげている。


スペイン語版、カトリック教会における十戒

1. すべてに優先して主なる神を愛せよ。
2. 神の名をみだりに唱えてはならない。
3. 祝日を聖なるものとせよ。
4. あなたの父と母を敬え。
5. 汝、殺すなかれ。
6. 不純な行為をしてはならない。
7. 盗んではならない。
8. 偽りの証言をしたり嘘をついてはならない。
9. 不純な考えや願望を抱いてはならない。 (元来存在しない)
10. 人の財産を欲してはならない。


イザヤの十戒

1.神と隣人とを自分のことのように愛しなさい。
2.神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない。(霊性で商売をしてはならない)
3.少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい。
4.君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈 愛、尊重、理解を示しなさい。
5.どのような形であろうと、いかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。
6.望まない性行為を誰にも強いてはならない。(感情の自由を尊重せよ)
7.エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない。
(公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ)カトリック教会の十戒7・8・10の統合
8.自由意志を尊重せよ。
9.霊的裁きの法則を尊重せよ。
10. 個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ。


旧約聖書の申命記と出エジプト記に書かれてある十戒(括弧内は原典のヘブライ語訳からのイザヤの解釈)

1.わたしのほかに何ものをも神としてはならない。(唯一の神)
2.自分のために、偶像を造ってはならない。(神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい)
3.神の名をみだりに唱えてはならない。(神の名を、欺くために使ってはならない)
4.土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。(6日間は働いて7日目はいかなる仕事もしてはならない)
5.あなたの父と母を敬え。
6.汝、殺すなかれ。
7.姦淫してはならない。(売春してはならない)
8.盗んではならない。
9.隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10.あなたの隣人の家―妻、奴隷、牛、ろば、すべて―を欲しがってはならない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ç

*十戒(モーゼが神から与えられたとされる10の戒律)の元となったのは何ですか? 神自身が口述したのでしょうか、それともモーゼが発案したか、誰か別の人間が作ったのでしょうか?

神自身ではない、そうだとするのは言い過ぎだろう。しかし、君たちが十戒と呼んでいる最初のものが、高度に進化した存在たちによってモーゼに伝えられたのは確かだ。高度に進化していたがゆえに、彼らを神の使者だと考えてもらっても構わない。


*それらの存在は、どんな目的で十戒を伝えたのでしょうか?

その時代の人びとに、霊性とはいかなるものかという基本的な概念を与えるためだ。だが高次の存在は、何かを要求したり義務付けたりすることがないので、戒律というよりは助言であったと言った方がよい。それゆえ、それを十戒と名付けたのは間違いなのだが、君たちが聞き慣れているのなら、引き続きそう呼ぶことにしよう。


*真実であるものが少しでも残されたことに感謝します。

とはいえ、改ざんや改変、加筆などの標的にならなかったわけではない。


*そんなことだと思っていました。で、改ざんされたものはどれで、されなかったものは何ですか?

もしよかったら、一つ一つ見てみよう。歪曲されているものは、後世のもので歴然としているので、君たちにもわかることだろう。旧約聖書に書かれた内容と、カトリック教会で公認された十戒とを比較すればいいだけだ。


*では、最初の戒律から始めましょう。カトリック教会によると、それは「すべてに優先して主なる神を愛せよ」ですが、これは何をいわんとしているのでしょう?

これは良い戒律だが、エホバがモーゼに十戒を与えたとされる申命記(モーゼ五書の一書。十戒は旧約聖書では、申命記と出エジプト記に記載されている)では見当たらない。
これはむしろ、当時の律法学者に「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」と問われたイエスが、「第一の戒めは『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』であり、第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である」と答えたことに由来する。

しかし、申命記においては、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。また自分のために、偶像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水中にあるもの、いかなるものの形も造ってはならない。それらを拝んではならないし、それらに仕えてはならない」となっている。


*どちらが本物なのですか?

両方とも霊的に高次のものだ。モーゼのものは、その時代に頻繁に見られた多神教と偶像崇拝に対する風刺である。神が唯一の存在であること、そして、偶像を崇拝しても主たる神には届かないし霊性とも無関係であると伝えたのだ。つまり、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と告げている。
 イエスのものは、神が唯一であることを認めた上で、より高度な要素が付加されている。それは、「神と隣人とを自分のことのように愛しなさい」ということで、「愛の法則」の要と言えよう。


*二つとも正しいのだとしたら、何が問題なのですか?

 私には、何の問題もないよ。カトリック教会の十戒が申命記にも記載されていて、エホバが―ヤハウェと呼ぼうが構わないが―モーゼに告げた通りのものであると頑なに信じている者にとって、問題となるのだろう。でも、実はそうではないところに近世のペテンがあるのだ。
 旧約聖書に書かれていることに的を絞って見るならば、第一の戒律はイエスのもので、モーゼのものではない。


*ではどうして、そのように変えたのでしょうか?

 申命記の戒律では、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と人に告げている。しかしながら、よく観察すると、カトリック教会はこの掟に背いている。彼らは、多くの聖人や聖母、またイエス自身のあらゆる種類の、おびただしい数の像を崇拝することに力を入れているからだ。ルターのような宗教改革者にも気づかれたこの矛盾をなくす策の一つが、この戒律自体を削除して、他の体裁を繕えるものにすり替えてしまうことだった。


*なぜカトリック教会は、聖像を崇拝するようになってしまったのでしょうか?

 これもすでに話したことだが、コンスタンティヌス皇帝以後のカトリック教会は、それ以前の宗教の慣習と儀式とを採り入れたのだったが、それらの宗教では神々への偶像崇拝が一般的だったのだ。この風習はローマ帝国の様々な地域において根強く残り、コンスタンティヌス帝が布告した強制的な改宗をもってしても、簡単に一掃できなかった。
 しかも教会にとっても、この習慣を排除することは得策ではなかった。というのも、偶像やそれらへのお供え物を崇めさせておけば、人びとの気を逸らせておくことができ、真の霊的な価値観を問われることも、それに相反する彼らの利己的なやり方が問題視されることもなかったからだ。

 こうして、過去の男性神の数多な偶像は、聖人やイエスのものに替わり、女性神の偶像は聖女や聖母のものとなった。除外されたものは、新しい宗教の聖像にするのが不可能だった、動物の像のみであった。
 私の話が意外だとしたら、もっと時代が近い、似たような現象を見てごらん。アメリカ大陸が征服されて先住民は強制的に福音化されたが、未だに、先コロンブス文化の神々への崇拝と祭式が続いている。今では、かつての神々の名が、教会の聖人の名前に置き換わっているだけなのだ。

 以上のことが、ユダヤ教徒が偶像を崇めない理由の一つになっている。
 他方、カトリック教会もユダヤ教会と並んで、十戒を正式に認めると公言しているにもかかわらず、信者は偶像を崇拝しているのだ。


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20 愛の法則から見た十戒 2


*霊界が儀式についてどう思っているのか、もう少し深く教えていただけないでしょうか。というのも、人間が宗教を信仰するのは、祭式が神聖と見なされている影響が大きいと思うのです。

 儀式というものは、それを執り行うことで神に近づけると勘違いした人間が発明したお遊びに過ぎないのだが、実際には、真の霊性に人が近づくことを阻むカモフラージュにされている。
 祭式は、人間社会の慣習と感受性の度合いに応じて、時代ごとに変化していった。過去の時代においては、人間を拷問したり生贄にすることで神々が満足すると信じられていたために、儀式というものは身の毛のよだつ行為であった。のちに人間の生贄が動物の生贄に取って替わり、今日でもこの習慣は様々な地域社会に残存している。イエスのお陰でキリスト教の社会では動物を捧げる風習はなくなり、それほど残酷でない儀式に置き換わった。

 しかしながら、神や霊性の導き手たちが彼らの援助と引き換えに、祭式や捧げ物を要求したり必要とすることなどないと知っておくことだ。彼らは、この習慣を進化の乏しい人間にありがちな特性だと思っており、捧げ物をすることで命が奪われたり、苦しみや痛みが生まれることに悲しみを覚えている。そして、それをする者たちが自らを騙してしまっていることを悲しく思う。それというのも、人間や動物を犠牲にするような残酷な儀式は「愛の法則」に反するものなので、実際には意図したこととは反対に霊的な債務を負うことになるからであり、無害な儀式でも霊的な観点からは無意味であるからだ。

 また、聖地とされる場所に巡礼する必要もなければ、それを要請されることもない。願をかけて長期間絶食するといった馬鹿げた行為も、自分を鞭打つことも、健康を損なうリスクがありながら誰の得にもならない、苦痛を生み出す無意味な肉体的なせっかんも不要だ。求められるのは、前進したいという意志のみなのだ。
 これまでに何度となく繰り返してきたが、もう一度言っておこう。霊的な向上に役立つのは、エゴを排除し愛の感情を育むことにおける我々の進歩のみである。そしてこれには、日々の努力が欠かせない。それゆえ、霊性の道に近道など存在しない。つまり、多くの人びとが望むように、自己努力をせずに目標に達する、手段も儀式も存在していないということだ。儀式というものは、偶像崇拝やお祈りを繰り返すのと同じように、霊的な視点からは意味のないものだ。


*特定の儀式やおまじないによって、霊的な力を獲得できると約束する人もいますが、そういうこともあるのでしょうか。

 そんなことはもちろん、愚か者だけが騙されるでまかせだ。前に説明した筈だが、テレパシーや透視力といった能力が発達するのは、愛における霊的な向上が見られる時だけだ。だから、そのようなことを実践して、超人的な能力を獲得できる者などいやしない。


*しつこく聞いて申し訳ないのですが、魔術やおまじないについてはどう思っていますか? 効き目があるというのは本当ですか? つまり、ブードゥー(黒魔術)や呪いのように危害を加えることが目的であっても、人が願い事をする時には、ある種の霊の協力を得られるのでしょうか? また、何か根拠があるのでしょうか?

 まじないも魔術も、霊的な実習とは見なせない。まじないとは、儀式と同様お遊びであり、宝くじに当たりますように、という他愛もないもののこともあるが、時にはゾッとするものもある。他者に損害を与えようとして願をかける場合などは、利己的な意図が明らかである。
 確かに中には、悪い目的を持った人間の要求に応じようとする、ネガティブな存在がいる。彼らも似たような悪い意図を持っていて、特定の人に害を及ぼそうとするのだ。

 だが、そうは言っても、それが成就されるとは限らない。人に危害を加えたい霊や人間がそう望むだけで、誰でも好きな人をいじめることが許されるとしたら、それは、肉体を持って生まれた者たちの自由意志を侵害することになる。ネガティブな存在たちに、好き勝手に人を痛めつける能力があったとしたら、皆がメチャメチャにされてしまうだろう。

 しかし、すでに話したことだが、彼らが影響を及ぼすことのできる範囲は限られている。ネガティブに感化することができるのは、そのような悪い影響を甘んじる低波長の者たちか、怖れや自己暗示によって、そうなると信じてしまう者たちなのだ。したがって、このような悪い霊に感応しないように防衛するには、各自の人生に対する姿勢が一番有効である。人を傷つけないように気を配りながら、善い意図を持って行動する者は、自動的にこのような影響力から身を守ることができる。

 それよりも、魔術で他者を不幸にしたいと思う者の方が、この手の行為の被害者になりやすい。悪霊たちは、誰にも危害を与えることができないと、悪いことを企んで自分たちを呼び込んだ者自身に影響して、餌食にしてしまうのだ。
 他者に黒魔術を使った者は、原因と結果の法則において、将来人から呪われることになる。そうして自分自身で、他人に及ぼした忌まわしい行為の結果を体験することとなる。


*それでは、誰かに呪われているため、または悪霊に苦しめられているために気分がすぐれない、と言っている人たちをどう思われますか?

 ほとんどのケースが事実ではない。気分が悪いのは本当だろうが、それは呪われているからではなく、自分自身の感情的な問題や利己的な行為が原因となっている。また、霊に嫌な目に遭わせられるかもしれないと信じることで怖くなり、悪霊という恐ろしい存在を自分の想像力で創りあげてしまう人もいる。そしてそのことによって、自分の力を失い、精神的にも落ち込んで、自己暗示によって不快になってしまう。不快感の原因が何であるのかを突き詰めて考えるよりも、それを人のせいにした方が簡単なので、そういうことになるのだ。


*でも、実際にネガティブな霊の影響を受ける場合もあるのでしょうか? 悪魔に憑かれてしまった人とか、悪霊に支配されてしまった人もいますか?


 悪魔は存在しないので、悪魔に取り憑かれてしまった人はいない。記録に残る「悪魔憑き」のほとんどが実際には、強い心理的錯乱がある精神患者で、極度のトラウマ状態を経験したことや、狂犬病などの伝染病の犠牲となったことによる。
 だが、エゴ的な感情が起こるとネガティブな霊の影響を引き付け、それがより一層助長されることになるというのは本当だ。人からかけられた呪いが効いたのではなく、自分自身で招いた状況なのだ。
 様々な要因で、大なり小なり憑依的な霊に左右される人がいるのも確かである。その理由としては、悪い霊との交信を望んだためとか、彼らに感化されやすい弱点-たとえば麻薬を常習しているなど―があるとか、極端にネガティブな利己的な態度をとったせいである。

 他に、過去に悪いことをしたせいで、その復讐をしたがっている霊にさいなまされる場合もあるが、通常その影響力はかなり限定されている。一般的には、被害者となる人に否定的な思考を起こさせるだけで、その人に取り憑くことはない。
 霊媒となる才能がある人は、その資質ゆえに霊界との交信が取りやすく、コンタクトも強いものとなるので、ネガティブな霊にもっとはっきりと邪魔されやすい。でもそれは低俗な本能や邪悪な行為に引きずられた場合だけで、ホラー映画に出てくる悪霊に取り憑かれるケースなどは全くの作り話だ。


*では、そのような場合には、どうしたらその影響を振り払えるでしょうか? いわゆるエクソシスト(悪魔払いの祈祷師)は、悪霊の影響を払う特別な力があるのでしょうか?

 もう説明した筈だ。ネガティブな存在に悩まされるのなら、それは通常は、我々がその霊を呼び込むような態度をとってしまったことを反映しているのだ。だから、肯定的な態度に変わること、つまりエゴによって生まれた悪習を断つことが、その影響からの解放に繫がる。何か特別な儀式やまじないを行うことで振り払うのではない。君たちがエクソシストと呼ぶような祈祷は、無益なだけでなく馬鹿げている。


*エネルギーを通すことで被害者のエネルギー体を綺麗にすることは、ネガティブな霊の影響を払う役に立つのでしょうか?

 エネルギーを流す人が良いパイプ役であり、その能力を利己的な目的に使用しないのであれば、助けになれる。高次の霊たちが、その人を通して活躍するので、悪い影響を振り解いてあげることができるからだ。
 だがそれをしてもらっても、否定的な態度を変えようとしなければ、その効果も一時的なものだ。したがって、ネガティブな存在たちの影響を振り解くのは他人に頼ることではなく、自分次第なのである。


*自分の態度が悪くなくても、ネガティブな霊がいる雰囲気を感じ取れる敏感な人もいますか?

 そういう人もいて、疲労や倦怠を感じるが、不快感は長くは続かず、その場所を離れれば消失する。つまり一部で信じられているように、低波長の霊たちが頻繁に出入りする環境にいたからというだけで、悪い霊に憑かれて苦しめられることなどない、ということだ。
 時折そのような悪い雰囲気は、肉体を持った者自身のエゴ的感情によって生じている。繊細な人であればそれを感じ取って気持ちが悪くなるが、それも一時的な感覚であるものだ。


*いわゆる「超常現象」を発生させることのできる霊がいるというのは、本当でしょうか? 物が動いたり、照明や機器が独りでに点滅したり、ビデオや録音で捉えた声や残像などがあって、そのような現象に遭遇した人たちはとても怖がっているようですが。
 
 そのような現象はあるが、悪さをしようとしているためとは限らない。
 時には、まだ生きていることを知らせたいために、肉体を持った者と交信したがっている霊に過ぎない。そういう場合は、少し前に亡くなった霊であることが多い。この物理的な生にまだ執着を残していて、住んでいた環境や人間関係を捨てたくないために、まだ生き続けていることを知らせたくて、近親者の注意を引こうとする。彼らに話しかけたり触ろうとするのだが、肉体を持つ者との交信やコンタクトの可能性に限界があるので(肉体を持つ者の感受度による)、その存在に気づいてもらえない。

そこで彼らにとっては、物質よりもエネルギーを扱う方が簡単なので、電気で動く機器に干渉して、電球やテレビやラジオを点けたり消したりする。また、そこに霊媒体質の人がいる場合には、その人のエネルギーも借りて、物体を移動させることもある。
 こういうことは、何が起きているのかわからない人たちを大変怖がらせてしまうが、実際には邪悪な意図はなく、注目を集めたいだけで、肉体を持つ人たちの間に引き起こす怖れには気づいていない。


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