2018-06

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現在は過去から?未来から?


日本人の寿命は年々伸びていて、昨年9月のデータ(2013年平均寿命)では、
男性が80.21歳、女性が86.61歳となったそうです。
縄文時代は30歳代、昭和初期までは40歳代、50歳代だった戦後から現在までの
70年間で、日本人の寿命は30歳も伸びたことになります。
世界一長寿とはいえ健康寿命としては疑問ですが。

一方貧困に苦しむアフリカのザンビア、ジンバブエ、スワジランドの平均寿命は40歳。
貧困のため子供を生んでも、栄養失調、下痢などによる乳幼児の死亡率が極めて高く、
開発途上国の5歳未満の子供の3人に1人は、栄養不良ともいわれています。

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この寿命は、時計で測った物理学的時間のことですが、
生物学的時間からみたときには、例えば、30gのハツカネズミと3トンのゾウでは、
18倍もゆっくり時間が進んでいることになるという違いがあるといいます。

NHKラジオでの連続講演をされていたという本川達雄氏の著書の ひとつ、
「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)にこのように書かれているそうです。
情報元:木更津市教育委員会 前教育長 西村堯
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第八章「生物の時間と絶対時間」では
「動物の時間は体重の四分の一乗に比例する」と一般化できるそうで、
30gのハツカネズミと3トンのゾウでは、18倍もゆっくり時間が進んでいることになる。
動物の時間はこのように異なるが、
その動物の心臓の動きを時計としてみるとまた違った見方もできる。

「心臓時計」で計ると、息を一回吸って吐く間に心臓が何回打つか。
一呼吸の間に脈はほぼ4回打つのだそうで、これは、ゾウでもネズミでも同じで、
他の動物でも変わりないそうだ。

「心臓時計」でいろいろな時間を言い直してみると、
腸が一回じわっと蠕動する時間は心臓時計11拍分、
血液が全身を一巡りするのが84拍分、
親の心臓が2300万拍打つと子供が生まれ出て、15億回打つと、みんな死ぬ。(P.170) 

ネズミの寿命は2~3年、インドゾウは70年ちかく生きるけれど、
「心臓時計」で計れば、みな同じということになる。

第十章「ヒトの寿命と人間の寿命」では
ヒト(生物としてのヒト)の場合、15億回は41歳。平均寿命80年とすれば、
人生の前半は生物としての正規の部分、後半は人工生命体であるという。
「この二つの部分は大いに異なるものだときっちり覚悟して生きていくべきものだ
と私は思います」(P.208)と著者は述べる。


ドキッとしますねえ。私(筆者西村氏)は75歳。
とっくの昔に生物学的生命(15億回の拍動)は尽きているわけで、
医療の進歩、上下水道などの衛生施設の整備、食生活の改善、冷暖房など、
技術の進歩に支えられて、今の生命があると言える。

後半の「人工生命体」としての人生をいかに生きるか、考えさせられる指摘である。
生物は生殖活動が終われば、みな死ぬ。しかし人間は違う。
とすれば、どういう生き方をすべきか。

 そこで、著者は言う。
「次世代のために働くこと」―これを広い意味での生殖活動と考え、
これに老後の意味をみつけたい。(P.219)


<引用ここまで>

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概念が違うとまた面白い発想でみられるものですね。
かつて古代人は天体の動きや位置を基に日時や季節を理解しましたが、
時計が制作されるようになった今、天体とは切り離された人工的な時間概念が
一般的です。

時間は過去から現在そして未来に向かって進むように誰もが思い、
原罪とか因果とかカルマという言葉も普通に見聞きします。
しかし徐々に、色々な説に基づく概念で捉え方は違うんだ
ということもわかってきました。

苫米地英人氏のいう時間の概念からすると、
時間は未来から現在、過去に流れていると捉えます。
インド哲学では以前からそうした見方です。

過去に因果があるとする説は、大雑把にいうと結局支配しやすい。
原因が過去にあって、今ここは過去の影響でこうなっていると見る。

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Wiki
時間の向き

苫米地英人の主張:時間は未来から過去へ流れる
苫米地英人は次のように主張する。


「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」
という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている[17]。
またこれは現代の分析哲学における結論でもある[18]、と指摘しつつ、
苫米地英人はこの見方を支持している。

「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、
創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、
と苫米地は指摘している[17]。

創造主のいる宗教では「絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まり
それにより玉突き的に因果が起きて現在まで来た」と考えたがるが、
そう考えないと創造主自体の存在を肯定できないので、「過去の出来事が現在の原因である」
と解釈されることになる、と苫米地は指摘した[17]。

こうした考え方で“過去の因果によって現在、そして未来がある”などと考える限り、
自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されている[17]。
自分自身を、まるでただのサーモスタットのように見なすことになってしまうからである[17]。

ユダヤ・キリスト教的な時間観の枠内だけで育った人には意外に思えるかも知れないが、
その枠をとりはらって少し考えてみてみると分かるようになるという[17]。
以下のように解説されている。

現在は一瞬で過去になります。
今、現在だったことはちょっと前の未来です。
今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。
当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。
つまり現在の結果が過去です。
あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、
過去へ消えていっているわけです。


この感覚は一度理解できると意外なほどに腑に落ちるという[17]。
自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚。
(自分が過去から未来へと向かっているのではなく)未来のほうが自分に向かって
流れてくる感覚である。
そして現在起きたことがどんどん過去になり遠ざかってゆくという時間の流れの感覚
である[17]。こう考えれば、現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、
しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、
しかもその未来は(過去の因果ではなく)さらに未来の因果によって決まる、
ということになる[17]。

これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、
自分は川の一点を見ている、ということである。
川は上流(未来)から下流(過去)に向かって流れている。

ある時自分が上流から赤いボールが流れてくるのを見る。
その後青いボールが流れてくるのを見る。ユダヤ・キリスト教的時間観で見てしまうと
「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」という解釈になる。
だが実際はそうではない、と苫米地は指摘する[17]。

赤いボールが流れてきた結果青いボールが流れてきたわけではない[17]。
未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれて
それが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきた、と苫米地は指摘する[17]。

例えば上の事例で、赤いボールを拾うか拾うまいか迷った揚句拾わなかった。
その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、ということがある。

ユダヤ・キリスト教的な時間観で解釈してしまうとつい
「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と
考えることになってしまうが、この場合も、赤いボールを拾わなかった、ということと、
その後に青いボールが流れてきた、ということは何の関係もない。

つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がない
のである[17]。過去に縛られる理由などどこにもない[17]と苫米地は指摘する。


<引用ここまで>

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シュタイナーは、過去から未来へ流れる時間をエーテル的時間、
未来から過去へと流れる時間をアストラル的時間と呼んでいたそうです。
未来は経験の外にあり、過去は経験の内にあるといったような意味のようです。

過去から未来へであろうと、未来から過去であろうと、
そもそもこの時空の内側からの見解です。
どっちが正しいとか本物とか間違いとか偽りとか、そういう判断は、
表現や方向性、受容側の認識、意識の段階や状況で、どっちもあると思うのです。

この時空内の解読は、いずれ自分自身が物理的な世の中を見通せる段になれば、
どの解釈の理も頷けるのではないかとも思います。

半田さんの提唱するヌーソロジーはとても高度でまだまだ理解できませんが、
私たちは簡単に理論づけして納得したり反発したりしてるようで、むしろ、
時間と空間を超えなければ理解ができないことがほとんどだとつくづく感じます。

なので必ずしもどちらかで、というよりも、どちらでも、というニュートラルなスタンスで
私は見がちですし、自分の前や後ろに過去や未来を連想するのではなく、
自分は一歩も動かず、毎日や毎分が今ここにページのように重なって在る、
そんなイメージです。

半田さんの講演会の過去ログより
棒を横からみると一本の横の「線」だが、縦にみると「点」になり、
過去から現在への時間という幅も、「今と過去」が「ここ」に一致する。

幅の意識から奥行きの意識へ替えると、巨大な宇宙も粒子になる。
奥行きは光であり永遠であり心である。
知識だけでは意味はなく、意識の変容が問われる。


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次元を超えるとは、今までの物質世界(顕在意識も含めて)に、核となる心が備わった
創造に移行していくこと、
すなわち、心=想い=光であるという素粒子レベルの変容が、
各個々人からなされていく、生んでいくということです。

現在が、過去からであっても未来からであっても、肝心な今にそれらは
集約されているわけで、
今を迎える自分自身が、トータルな今にフォーカスすることに
なんら違いはない。こんなふうに思ったりしています^^






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