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2019-01

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20・21 「愛の法則」

ここに転載させていただきますのは、昨年出版されたヴィセント ギリェム氏の、
著書『魂の法則』の後に受けた、高次からのメッセージ『愛の法則』です。

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著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ氏

転載元
転載元


21 愛の法則から見た十戒 3


*すでに肉体のないこのような存在たちに状況を把握してもらって、霊的次元で自分の道を進んで行ってもらえるように手助けすることはできるのでしょうか?

 それは君たちによるというよりは、彼ら次第だ。なぜなら、霊的な次元では、その移行に必要とされる援助が得られるのだが、時々、物的な世界との繫がりを断ち切り難い場合があるのだ。そういう場合、支援する魂たちは、彼らが自分自身の意志で歩み続けることを決めるまで、見守っている。
 また、そのような境遇の存在たちは思考を読むことができるので、声に出さずに頭の中で話しかけてみることも有効だ。彼らの置かれた立場―つまり、もう肉体的な生を終えたこと(中にはあまりに混乱していて、自分が肉体を離脱したこともわかっていない者がいるのだ)―や、その場所に永久的に留まっているのは不可能なことを説明し、霊的な世界の仲間や愛する者たちに助けてもらうべきだと諭すのだ。

 何よりの助けとなるのは、彼らを亡くしたことによる悲痛や悲嘆の感情を避けることである。というのも、準備不足の者は、それが原因で、留まってしまうからだ。肉体を失った者は、愛する者たちが自分がいなくなったことで悲しみに暮れているのを見ると、哀れに思い、その状態で独りにさせてしまうのを辛く感じるものだ。だから、喪失感と悲しみを乗り越えることが、彼らを心置きなく立ち去らせてあげることになるのである。


*仲立ちをしてくれる霊媒や予知能力者を通して、死んでしまった家族と交信できるでしょうか?

 故人は、人の最も敏感な時を選んで別れを告げたがるものなので、コンタクトは、夢の中やはっきり意識できる体験として、自然に起こり得る。コンタクトが自然に起きないのであれば、あえてそれを強いる必要はない。
 たまに、故人との交信を強く渇望するあまり、それを利用する者の手に落ちてしまうことがある。事前に一定額を支払うことで、死者との待望のコンタクトを取ってあげると口約束されるのだが、大概それは偽物であり、ただの演技に過ぎないのだ。

 愛する故人からの連絡の形跡がすぐになくても、心配には及ばない。死というものは存在しないのである。連絡がなかったとしても、他界した人は、そのまま霊的な次元で生き続けている。
 君たち自身の準備が整っていないために、連絡が取れないこともある。たいていの場合、君たちはあまりに悲嘆に暮れていて、愛する故人が伝えたいと思うことを受け取る余裕がない。そういう時にコンタクトがあっても、喪失感が増して、別れ難い思いをズルズルと引きずり、辛くなるばかりだろう。だが、悲しみを克服すれば、切望することが叶うかもしれない。
 睡眠中は皆、身体から離れられるので、愛する者たちがいるところへ赴くことができる。敏感で感受性が高ければ、その経験を覚えていることが可能となろう。


*では、手相見やタロットや同様の手法で、未来や過去を言い当てられると言う人や予知者のことをどう思われますか?

 未来は白紙である。いわゆる「アカシックレコード」と呼ばれる、個人の過去の記録や未来の可能性にアクセスすることは可能だが、それはとても制限されている。肉体を持った者は、当人の進化のために有益となる場合に限り、特別に自分個人の記録を見ることが許されるが、他人のものにはアクセスできない。
 アクセスは通常眠っている間に起こり、その体験は夢として記憶されたり、予感となったり、深くリラックスしている状態でビジョンとなって現れることもある。しかし、それができるのは自分が望んだ時ではなく、霊的世界がそうした方がよいと判断した時だ。

 人は大概、好奇心や欲心や利己的な関心から、自分の過去や未来のことを知りたがるが、霊的なガイドたちは、君たちのそのような動機を満たすために、この知識にアクセスさせてくれるのでないと、はっきり伝えておこう。
 それなのに、他人のアカシックレコードに入り込めると言っている人たちの数の多さには、全くびっくりさせられる。その多くが、事前に一定額を受け取っているのだが、いい加減にカードを並べたり、適当に本のページを開いたり、生贄にした動物の内臓の配置に意味を見出したり、あるいは他のゲームや多少不快な儀式をするだけで、いともたやすくその人の過去や未来を知ることが可能だとする。もちろんのことだが、このようなことはすべて嘘だ。


*でも、予知者の中には、言い当てられる人もいますよね。

 ほとんどの場合は当たらない。当たるように見えるのは、透視力を持つと自称する者が狡猾で、クライアントを持ち上げるのが上手く、その人から情報を引き出して返答したり、お客が聞きたいことを言うのに長けているからだ。お客を満足させれば、今後もセッションの代金を払ってくれる顧客となるからだ。
 だが一体誰が、自分の運命や未来が、適当に並べたカードに書かれていると信じられるのだろうか? カードを切り直してもう一度引いたら、違うカードが順番を変えて出てくるのではないだろうか? そうなってしまえば、その人の将来も変わってしまうということかい?

 常識を使って判断すれば、たとえばタロットというものが、ただの遊びに過ぎないことがわかるだろう。カードを並べるだけで、未来を占ったり過去を透視できると信じる人は、ゲームのモノポリーが得意なだけでエコノミストだと思い込んだり、飛行機のビデオゲームが上手いだけでパイロット気分になる人と同じである。
 それゆえ、そのようなゲームと霊性とをごっちゃにしてはならない。根拠のないことを信用してはならないのだ。これらはすべて霊性とは無関係なのだが、しっかり意識していないと虚偽と真実とを混ぜてしまい、迷信と霊性とを見分けられなくなってしまう。


*ごく一部だとしても、言い当てることができて、正しかったとわかるケースはどうですか? たとえば、人の個人的な出来事を詳しく言い当てられる場合は、どう説明できるのでしょうか?

 確かに霊媒能力を持つ人もその中にいるのだろうが、その能力を間違って使用しているようだ。霊媒能力というものは、霊的な授かりものであり、いたずらに用いてはならない。利益を目的にすべきではなく、ましてや職業にしてはならない。
 過去を言い当てた時のお客の反応が面白いので、そういうことを生業とする人たちに、進化の乏しい霊たちが寄り付くことがある。その場合は、カードを読んで当てているのではなく、そのような霊たちがお客の信用を得るために、彼らに正しい情報-その全部が正しいとは限らないのだが―を提供しているのだ。

 また、霊媒能力を持つ人の中には、下心があるわけではないのだが、無知であるがゆえに世間のエゴに翻弄されて、自分の本当の能力と俗世間で学んだ技法とを混同してしまっている人もいる。こういう場合は、あまり進化はしてはいないものの、悪い意図を持たない霊たちが介入しやすい。


*占星術、つまり、天体が人生に及ぼす影響についてはどうお考えですか? 星座占いや星座カードは? 生まれた日付けと時間がわかれば、その人のだいたいの性格や、人生で起きる出来事をあらかじめ知ることができるというのは本当ですか?

 創造の万物は相互に網の目のように結びついているので、天体が発するエネルギーの光が、他の天体やそこに住む生物に影響するというのは本当だ。そして、地球からの距離によって重力の強さが変わるのと同じように、それらの天体の近くに行けば行くほど、その影響が強くなることも確かである。また、天体の配置によって、特定の霊的な仕事がやりやすくなることもあるので、進化した魂は、霊的次元の任務に取り組むために、より好都合な時期を選ぶことがある。

 しかし、それはあくまでも影響力に過ぎず、決定的な要素ではない。マラソンの選手が、いつも適度な気温と湿気を望むのは、それが、いい記録を残すための大切な条件だと知っているからだ。しかし、いい天気だから良い選手になれるわけでも、悪い天候のせいで劣ったランナーになるわけでもない。天候の及ぼす影響は、選手の記録を調整するのに限られるが、これと同じことが天体についても言える。進化した魂は、生まれる時の天体の配置がどうであろうと進化しているのであり、そうでない魂は、天体の位置が良くても進化した魂にはなれないのだ。

 転生することになる魂の誕生が二週間早まるか遅れるかによって、その人が違う人生を送ったり、異なった性格になるなどということが、どうして信じられるのかね? 魂の人格や成長というものは、無数の転生を経て獲得した霊的な学びの結果である、と何度も言わなかったかね? 人生で出会う試練は、生まれる前に自ら選んで準備をしたもので、それを乗り越えるかは個人の意志次第だと言っているのに、どうして誕生の日付によって、その人の人生の出来事が決まってしまうと思えるのだろうか?
 もう一度、はっきりさせよう。未来は白紙だ。人の未来が誕生日で決定されているのなら、どこに自由意志の余地があるのだ? 二次的なことばかりに注意を向けていると、本当に大切なことを見逃してしまう。


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22 愛の法則から見た十戒 4


*そうですね、では十戒の二つ目を見てみましょう。「神の名をみだりに唱えてはならない」ということですが、これについて教えてください。

 これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。このことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。

 多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思っている。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
 しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。

 最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すことまでが含まれている。このようなことすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきことで、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。

 聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるなら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。


*話が逸れてしまいますが、モーゼやファラオのお話で好奇心が刺激されてしまいました。実際はそうでなかったのなら、本当に起きたことは何だったのでしょう? エジプトの災いについては、宗教でも絶対に確かなこととされていますが。

 当時は二人の関係が良かったので、イスラエルの民を解放してもらえるように、モーゼがファラオを説得したのだ。


*では、ヘブライ人(古代イスラエル人・ユダヤ人の別称)たちは、彼らを殺そうとするフォラオの軍に追われなかったのですか?

 追われたのだが、それはファラオとその軍によってではなく、ファラオの決定に不満を持ったエジプトの支配層による。彼らが出発することを知ると、追っ手の傭兵隊を組織した。ファラオに歯向かうことを避けて、エジプトの手の届かないところで捕らえようとしたのだ。


*それで、何が起きたのですか? 聖書には、モーゼが聖なる力を借りて紅海の水を断ち割り、ヘブライ人が渡れるようにした後、エジプト兵に水が押し寄せたので、彼らは溺れ死んでしまったとありますが。

 実際に起こったことは違うのだ。まず、モーゼが水を断ち割ったというのは本当ではない。モーゼが考えたルートは、通常水に覆われている地域を通らなければならなかったが、時折、気候と潮の状況により、場所によっては渡れるほどの水準にまで、一時的に水が引くことがあった。モーゼの顧問役たちはこのことを知っており、彼にそれが起きる日時を教えたので、単に、潮が引く頃まで待って出発したのだ。ファラオに仕えている者たちも、通り道に当たる地域を整えてくれていた。2~3日遅れてそこに追っ手が到着した時には、もう潮が満ち始めていた。中に入って行けば海に飲まれてしまうことは明らかであったから、常識があれば渡ろうとはしなかった筈だ。だがそうしてしまい、渡っている途中で水かさが増して、溺れ死んでしまったということだ。

 これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったのは、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。


*それでは聖書には、なぜ別の話が書いてあるのでしょう?

 利己的な関心のためなら、すべてが歪曲されてしまうと言っただろう。当時は聖なる書物というものは、司祭職しか手にすることができなかったのだ。だから、実際に体験した人たちが死んでしまうと、自分たちに有利になるように事実を変えてしまうことは割と簡単だった。
 どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのために、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉をモーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。


*なんてことでしょう! その時代の歴史に、本当に起きたことをもっと知りたいです。人類の宗教観に多大な影響を与えてきたことですから。

 それは、我々が見ている大事なテーマから外れてしまうので、今は不適切だ。君に話したことを、人間がどういうものであるかを示す一例としてほしい。自分の一時のエゴを満たすためになら、何でも改ざんしてしまうのだ。霊的な教えもしかり、また、捏造された間違いだらけの神や使者の概念さえも伝えようとするのだ。


*第二の戒律(神の名をみだりに唱えてはならない)に最も違反したのは、特に過去の時代における宗教権威者だったようですね。

 過去の宗教権威者だけでなく現在の宗教権威者もだ。現在はより巧妙に行われているとはいえ、まだ神の名が利己的な目的のために使われている。霊的には偽りで、人間の魂の進歩を妨げる宗教上のドグマを正当化するために、未だに神の名が用いられる。高位聖職者たちは、その地位がもたらす権力を利用して、ありとあらゆる搾取や犯罪を犯し続けている。今では多くのことが秘密裡に行われているが、それは首謀者が明るみに出ると、法廷に引き出されるからだ。
 政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などには、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。

 だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいても、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動は、この掟に背くものである。
 同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繫がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒に背いていることになるのだ。


*「霊性で商売をする」とは、具体的に何を意味するのですか?

 霊性とは、魂が存在するだけで元来生まれ持つ特性である。進化を促す力となり導き手となるために、霊界から個々の魂に授けられた資質であり、天賦の才なのだ。
 したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時には無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換えに、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。

 様々な霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。


*でも、「お金持ちになりたいのではなく、霊性に天職を見出したのでそれに従事したいと思っている。他の仕事をする時間がないけれど、何かで暮らさないといけないので、スピリチュアルなことでお金を取る必要があるんだよ」と言う人がいますが、これについてはどうですか?

 誰から、物質界での仕事を免除されていると言われたのかね? 我々は全員、霊的な進化と関係があるのだから、「霊的なこと」に従事するために皆が仕事を辞める決意をしたとしたら、この世界は何で生きていくのだろうか? 
 現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでいる。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではない。

 霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されることなどない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務-たとえば仕事だ―を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふさわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。



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