FC2ブログ

2018-09

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

24・25 「愛の法則」

ここに転載させていただきますのは、昨年出版されたヴィセント ギリェム氏の、
著書『魂の法則』の後に受けた、高次からのメッセージ『愛の法則』です。

o0173022012556018255.png
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ氏

転載元
転載元


24 愛の法則から見た十戒 6


*それでは、(教会などで)人のために募金集めをするのもいけませんか?

 困っている人のために助けを請うのは、悪いことどころか、その反対だ。貧困者を支援するという善い目的のためにお金が使われるのであれば、それは霊的に気高い行為である。
 正しくないのは、仕事をしないで済むように、自分のためにお金を貰おうとすることだ。無意味なことや利己的な目的で、お金をせがむのも正当化できない。そして、それに輪をかけて不当なのは、公正なことを口実としながら、後で利己的な目的にそのお金を使ってしまうことだ。貧困者を救済するために集金しておきながら、それを株に投資してしまうというようなやり方が、これに当たる。


*でも普通は、募金集めをする人は、立派な志でやっていると思っている筈ですよ。ある人にとっては気高い目的でも、別の人にとっては無意味なことがありますが、それをどうやって見分けるのでしょうか? たとえば、信仰の場の建設や老朽化した教会の修復を崇高なことだと思う人がいても、他の人たちには意味がなかったりします。

 
 崇高な趣旨とは、必要としている者を助けることである。社会格差や理不尽な物事を一掃するのに役に立たず、貧困者のためにならないものには、利己的な意図がある。
 各人が良心を見つめ、人のために募金集めをしてあげる時の自分の動機が何であるのかを内省してみるがよい。そうすれば、自分をつき動かしているものがエゴ的な思いなのかがわかる。他人は欺けても、自分の良心を騙すことはできないからだ。
 カトリック教会は大金持ちであるので、聖堂の改修や新しい教会の建立のために資金を集める必要などない。もっとも、他の人たちに彼らの棲み家の請求書を払わせることができれば、大満足であろうが。


*他にしてはならないことはありますか?

 前に言ったことだよ。霊性を職業にしてはならないということ、つまり、スピリチュアルに関係する活動をして生計を立てようと思ってはならない、ということだ。霊的なことでお金を稼ぐ者は、霊性の助言役としての資格を失い、霊性の商人と成り果てるのだ。
 また、財産や経済的な利益を手に入れるためや、人より有利になるためや優遇されるために、霊性を使うべきではない。そうすれば、組織の資金で維持される、宗教的な職業(僧職)階層ができてしまうこともない。そのようなものは、教会の信仰や儀式をしきり、組織を維持する方策として加入者を勧誘すること以外に、何の役目も果たしていない。
 私の話は、今日のピラミッド型の不公平な会社構図を例にとれば、理解しやすくなるだろう。


*宗教への勧誘が悪いことのようにお話されていますが、矛盾が出てきてしまいました。霊性の知識を自分の人生に役立てられて、それを他の人たちにも教えてあげたいと願うことが、いけない行為なのでしょうか?

 先ほどの勧誘とは、相手の自由意志を尊重せずに、何かを説得したり納得させようとすることを指している。私が問題にしているのは、力づくで信徒を獲得したり、操作や強制をしたりする者たちのことだ。あるいは、特定の信仰に加味することを条件に人を助けたり、全く関心のない者を説得したり、自分の概念や信念を押しつけようとする者たちのことである。このようなことはすべて、相手の自由意志を強要することになる。
 他者を愛するということは、相手が必要としていることを助けてあげるということで、その見返りとして、自分の考えや信仰を共有してもらうことを期待してはならない。霊的な知識を広めようとすることは、悪いことではない。

その反対にそれは善いことで、人が成長し幸せになるために求められることでもある。だが、それを相手の意志に反して行ってはならないのだ。要するに、自分が真実を知っていると信じていても、人に強要してしまえば間違いを犯していることになる。
 したがって、自分自身の信念を相手にも信じさせようと躍起になって、無理強いしたりプレッシャーをかけたりしてはならない。誰にも、絶対に、自分の信仰を押しつけてはならない。そうではなく、それを自分自身に適用して、愛の感情を発達させてエゴを一掃することで、もっと幸福になるのだ。自分が実際に手本となって示してあげることが、他の人たちにとっては、一番の学びとなるのだ。


では、スピリチュアルな援助を求めて人が来る時は、どのような態度で接するべきでしょうか?

 人を助ける時には、自分の信念を受け容れてもらうことや共有してもらうことを引き換え条件としてはならない。心を開いて、彼らが興味を持つことに応じて、分かち合うべきである。様々な意見が出るのを認め、自分と違う視点を尊重すべきだ。そして、他の人の視点がより的を得たものであれば、聞く耳を持ち、自分自身のものの見方さえ変えようとしてみるべきだ。
 感情的な問題を解決してくれるように頼まれた時は、自分の意見を言う前に、「君の心はどうしたいの?」とその人に質問してみてごらん。我々は思考と感情とを混同してしまうことが多いが、心の声ほど適切に我々を導いてくれるものはないからだ。頭に介入するのはエゴなので、そう尋ねることで、心で思うことと頭で考えることとの区別がつくように手助けしてあげられるのだ。考えが整理できるように、君たちの意見や体験談を話すのはいいが、当人に代わって決断を下したりせずに、それぞれの人生にふさわしいことを自らの価値判断で決めさせてあげなさい。

 求められる援助の内容と程度は、人によりけりだ。各人のレベルに合わせて、必要とされ、受け取る気があることだけを与えるまでだ。それと同様に、君たちの能力が及ぶことまでに限られる。君たち自身に、その人の手助けができる準備が整っているかを見てみるのだ。自分がまだ力不足に思えれば、それを認めて、その用意がある人に助けてもられるように適役を探しなさい。悪気がなくても、知らないことを助言してしまえば、その人を助ける代わりに混乱させてしまうからだ。
 また助けが必要な人がいても、それを欲しがらなければ、当人の意志を尊重して、アドバイスはしても押しつけないことだ。このような場合には、その人が気を変えるかを、ただ見守るだけしかできない。要は、その人が中に入ってこなくても戸は閉ざさずに、考えを変えた時に一度は断った助けを頼む勇気が出るように、半開きにしておくのだ。


*他につけ加える大事なことがありますか?

 ああ、自分の信念は権威ある者の価値観で決めずに、自分自身を拠り所としなさい。私が言いたいのは、あの人が言うことだからと特定の人の言葉を重視しないで、伝えられるメッセージの質で判断して、自分自身の価値基準で、それを排除するのか受容するのかを決めなさい、ということだ。そうすれば、真の霊的な教えが、身分の低い人のものであるために過小評価されることもなければ、利己的な内容が、著名人のものであるために持てはやされることもない。

 宗教上の権限は、実のところ、権威者の裁断が正しいものだと信者に思い込ませたこと、つまり、地位が上の者の言うことは下位の者の意見よりも価値があると思わせたことによる。最高司祭だとか大司教だとか呼ばれる法王の言葉は、絶対なる真実となり、霊性に関してはそれ以上の権威を持つ者がいないので、議論の余地もないのである。
 このようにして宗教の権威者たちは、彼らの利益にはなるが人間の霊的進化を阻む、利己的な信念を良しとすることに成功した。一方で、霊的には本物であっても、彼らの利得を損なう概念は非難や中傷をされ、葬られてきたのだ。


*まだ他に、してはならないことがありますか?

 そうだね、他者のために行うことで、人から認められたいとか、有名になりたいとか、賞賛されたいなどと思わないことだ。そうなれば愛ではなく、自分の虚栄心を肥やすだけだからだ。




*では、第三の戒律に移りましょう。これは、「祝日を聖なるものとせよ」でした。

 この戒律もまた、改変されてしまっている。申命記の文中では、「土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。六日間は働いて、すべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」となっていた。
 この戒律の意義は、権力者の搾取に対して労働者の権利を認め、その代償に報いるための休日を与えるものであった。当時は奴隷制が頻繁に見られる時代で、支配者は、自由人であろうと奴隷であろうと、働き手に休みを与えずに搾り取る傾向にあった。それゆえ、従僕や荷積みの動物までを含めた全員に、休む権利があると明記する必要があった。それは、すべての搾取に歯止めをかけようとするものだったのだ。つまり、「少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい」と言おうとしていた。

 教会もまた、この戒律を自分たちの都合のいいように改変するのに、ささやかながら手を貸した。初めは休日を尊重するものだったのに、彼らの都合に合わせて、イエスや聖母や聖人たちを祭る儀式を重視するものに変えてしまったのだ。
 つまり、これも、コンスタンティヌス帝以前のローマ帝国の風習を模倣したものであったのだ。聖ヨセフの祝日や聖ヨハネの祝日といった聖人のお祭りやクリスマスでさえ、それぞれが春分の日、夏至、冬至と重なっているが、それは、以前の異教の祭日をキリスト教のお祝いに再編したからなのだ。


*第四番目の戒律である「あなたの父と母を敬え」を見てみたいと思いますが、これについてはどういうご意見ですか?

 これは、老人を保護するのが目的だった。その時代の社会制度には、高齢者を守るための社会保障制度も、年金もなかったのだよ。当時の統治機関は、困窮者や弱者を守ることなど一切しなかったし、老人を保護しようともしなかった。したがって、老人たちに残された唯一の選択肢は、家族、つまり子どもたちに頼ることであった。子どもたちは大人になると、もう自分たちではやっていけなくなった年寄りを扶養したのだ。

 しかし、この戒律もその意味合いにおいて、やはり改ざんされている。というのは、両親を敬い世話をするといった肯定的なことを、親の意に従うのが子どもの義務であることにしてしまったのだ。この掟を盾に取り、子どもたちに対する所有権を得た親の多くは、心おきなく横暴に振舞い、彼らを隷属させた。虐待や侮辱、操縦によって、ほんのいたいけな幼少期から子どもたちの自由意志を侵害して、勝手に結婚相手を決めて不幸な人生に縛り付けるなど、彼らの意を曲げ、その人生をコントロールしたり支配したのだ。しかも、それが神聖なる権利だと思い込んでいた。
 よって、宗教色が濃い社会においては、親は子の人生に関して、より一層支配的になっていった。だから子どもが大人になって、しがらみを断ち切るほど強くなると、親のことなど知りたくもないという事態になる場合が多いのも、驚くに値しない。

 その時になると、親たちは「こんなにも色々尽くしてあげたのに、なんて仕打ちだ」と言いながら、子どもらに見捨てられたと嘆くのだが、実際には、自分の蒔いた悪い種を取り入れているに過ぎない。
 それゆえ私は、「父や母を敬う」だけでなく、人を理解し尊敬して慈しむ心は、家族すべてに、つまり、祖父母や、父母や、兄弟や子どもや孫たちにまでも、行き渡らねばならないと言うのだ。その中でも特に子どもたちは一番弱い存在なので、大事にしてあげなければいけない。

 小さな子どもたちは、最も傷つきやすく無防備な存在なので、より一層の理解と愛情と尊敬をもって、扱ってあげなければならない。子どもは絶対にたたいたり、辱めてはならない。以前にも子どもに対する愛情については取り上げたと思うが、それはとても大切なことだからだ。
 したがって、この戒律に関しては、次のようにより広範な意味で解釈することだ。君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈愛、尊重、理解を示しなさい。

----------------------------------------------------

25 愛の法則から見た十戒 7


*今度は、五番目の戒律である「汝、殺すなかれ」について話しましょう。

 これは、議論の余地がないほど明確だ。この掟は、霊的な世界から授かった時のままの形で保たれてきた。それゆえ、他の解釈はあり得ない。
 「殺すなかれ」は殺すなかれであり、命を奪ってはならないということだ。

 知っての通り、魂は不死なので、幸いなことに人間が何をしようとも、その不死性を絶やすことはできず、せいぜい肉体の生を中断させることができるだけだ。だが、肉体での生命は、霊界が魂に授けてくれる贈り物の一つである。肉体を持って生きている期間は、霊的な世界で魂が学んだことを実践してみせる場であり、身体の維持に空気が必要となるように、魂にとっては欠かせないものだ。そのため生き物には、自己の存在を認識できる前から、自分や同族の命を保つプログラムとなる、生存本能というものがある。
 命を奪うことは、その人の進化のチャンスを絶ってしまうことであり、霊的視点からは極めて否定的なことだ。それゆえ、この戒律のように簡潔だが基本的なルールを守れない限り、地球人類が心待ちにする、進化の飛躍を遂げる準備が整ったとは見なせない。


*世界のどこを見回しても、殺人を咎めない刑法というのはあり得ないと思いますけど。

 それはそうだが、人間は、死の中でも分け隔てをしているようだ。ある命は他の命よりも重要度が高いらしく、多くの場合において、殺人を合法化している。


*それは、どういう意味ですか?

 
 平和時にある男が何人もの人を殺すと、連続殺人者ということになり、必ず裁判で有罪とされるだろう。だが、同じ男が戦時に敵側の人たちを殺すと、戦争の英雄となり、政府から勲章を貰うだろう。しかし、この男が敵兵を殺したくないがために軍を離反するとすると、お上に捕らえられて、反逆者の罪を着せられ、処刑にされるかもしれない。
 ある指導者が、自国の軍隊に敵国を爆弾で攻撃することを命じたとして、それで何千人もの人が死んだとしても、それは職務を遂行したということになり、死者が軍人であれば「損失」と呼ばれ、市民であれば「付随的損害」と呼ばれる。そして、その国が戦争に勝てば、その指導者は英雄として記憶され、歴史でも名誉ある記録をされて、街路や学校の名前は、彼の名を戴くことになる。

 また世界の多くの国々には、刑法の中に死刑があり、罪次第では「正義を行う」ためにそれが執り行われている。
 以上の結論を言うと、君たちは「殺すなかれ」という戒律を、不当な契約書の末尾に小さい文字で書かれた「殺すに値しない者を殺すなかれ。しかし殺すに値する者を殺せば、じょうできだ。」という補足と共に、適用していることになる。そうしておけば、殺されても当然だったという口実を後から探しさえすれば、済むからだ。人殺しをしたりそれを命じる者は皆、そうしてもいい動機があると思い込んでいるものだ。


*戦争については、どうお考えですか?

 戦争と呼ばれる集団的な殺人や殺戮は、霊的な視点から見れば、最も重い罪の一つである。無数の命が奪われるという理由だけでなく、生き残る者に与える破壊と苦悩には、計り知れないものがある。それゆえ、戦争を煽ってはならないことも、非常に大切な霊的な助言であると伝えておこう。戦争の最高責任者たちは、彼らが与えた損害をすべて修復するまでは、永く辛い償いを耐えねばならない。


*でも、たいていの場合、戦争に赴く人は自分がひどいことをしているとは気づかずに、祖国のためとか、自分たちのイデオロギーや宗教的な信仰を守るためなど、いいことをしていると信じ切っていますよ。

 それは自分を欺いているか、騙されているのだ。殺人を正当化し得るほどの理念や信仰や祖国など、何一つないからだ。
 したがって、「聖戦」というものは存在しない。そんなものは、人間が作り出したものであり、富や権力への野望を正当化するために神を利用して、狂信によって、他の人たちに仲間を殺しをさせようとするものだ。
 ゆえに、戦争を先導してはならず、戦争に参加してもならない。それを正当化できるものは、何一つとしてないのである。


*死罪についてのご意見も聞いておきたいのですが、死刑は、世界の多くの国で、重い罪を裁く妥当な方法とだと考えられています。

 死刑は、どんな事情があるにせよ、またいかなる理由があろうとも、霊的な観点からは恥ずべきもので、残虐で恐ろしく、身の毛のよだつ、おぞましいものである。
 あろうことか、最も宗教心があり神の信徒だと自認する国々が、犯罪者への罰として死刑を適用するのに一番熱心である。それを我々が、どれほど深く嘆きながら見ていることか。
 裁きの代理人たちが、法に背いた者に死刑を課して、罪人と同じレベルになるならば、どの点で殺人者よりも優れていると言えるのだろうか?

 より残酷な国家では、軽犯罪に対しても死刑が適用される。中には、霊的に見れば罪に値しないものまでが含まれる。たとえば、そこでは愛してもいない男性との結婚を強いられる女性が大多数なのに、夫に不実であると処刑されてしまう。
 一神教を奉じる三大宗教、つまり多数の国の何十億人もの信者が、この「殺すなかれ」が織り込まれた十戒を聖なるものとしている。しかし実際には、どれほどの人たちがこの掟を尊重しているだろうか? 最も信心深いと言っている者が、この掟を一番守っていないように見えるではないか。

 よくあることだが、自分の宗教の儀式や規則をすべて守り、従わない人がいると目くじらを立てる、熱心な信者を自認する者が、実は最も感性に欠け、情け容赦がないのだ。そういう者は、人の生命や苦悩には全くお構いなく、死刑を擁護したり、自国の子どもを軍役に就かせて戦争によって他国の兄弟たちを殺すように煽るのだが、自分たちが神に祝福されていると強く確信している。
 神の真の信奉徒でありたい者は、正義の行為に見せかけたこのおぞましい犯罪に、真っ向から反対せねばならない。死刑が正当であると思わせているのは神ではなく、自身のエゴを神の似姿に仕立てあげたい者どもの狂信によって支えられていると知るべきだ。


*人殺しをしたり、誰かや大勢の死に対して責任のある人が死んだ後は、どういう運命が待ち受けるのでしょうか?

 通常、一部の霊たちの間で「奈落」と呼ばれる、下層アストラル次元の特定の場所に拘留される。そして、自分と同じような犯罪を犯した者たちと共に、犯した罪の大小に応じて、かなり長い間そこに留まることになる。
 そのような場所で、犯した犯罪の場面を何度となく再体験させられるが、今度は犠牲者の苦悩をあたかも自分のもののように感じるので、その苦しみは最たるものだ。このような者は、お互いに苦しめ合ったりもするが、復讐に執着する進化の乏しい犠牲者の魂にもさいなまれる。

 犯した罪を自覚し後悔する兆候が見えると、より進化した魂によって「奈落」から救い出されて、救助所に運ばれ、回復の手当てを受ける。その後、自分の罪の更正のための準備に取りかかるが、それはまず霊界で始まる。一例を挙げると、自分と同じ状況にいる者たちの救出を手がけたりする。そして、機が熟して物理的な次元に転生すると、罪の償いに捧げる人生を送りながら、それを継続していくのだ。


*自殺について話されることはありますか?

 自殺は自分自身を殺すことに等しく、霊的には魂の成長の機会を無駄にすることになるので、否定的なことだ。それはまた、試験を欠席してしまうのと同じであるが、今回中断してしまったことは、次の転生で、再び立ち向かわねばならなくなるのだ。


*自殺者は霊的な次元で、どういう運命を辿るのですか?

 一般的には、混乱した状態で、繰り返し自分が命を絶った瞬間を思い出し、近親者の悲しみを自分のことのように感じるものだ。再体験を繰り返すうちに、自分の取った行動がいかに無意味なものであったかを意識するに至る。自覚して後悔し始めた兆しが見えると、彼らには新しい転生が準備される。それほど時間をおかないで生まれ変わることが多く、中断してしまった人生で越えなければならなかった試練と同じものに直面することになる。


*安楽死に関してはどうですか? 
治癒の可能性のない病人や末期患者の場合のように、それを擁護できるケースがありますか?


 前にも言ったと思うが、生命とは神聖なもので、死が自然にもたらされる前に中断してはならないものだ。苦しみを避けてあげたいという善意からでも、命を打ち切るという行為は、霊的視点からは良くないことだ。
 苦境にいる人たちの命を全部終わらせてしまったら、誰もこの世にいなくなってしまう、と気づかないかね? 人が直面する状況はすべて、それが遺伝性の病気であろうと、半身不随であろうと、どれも、その魂を成長させる意味があるのだ。それらは、魂が生まれる前に選んだ試練なのだよ。

 寿命の前に命を中断させても、その人は別の機会に戻ってやり残した課題を終わらせる羽目になるので、全く助けとならない。苦痛を味わっている魂は、時折おじけて、命を断って逃げ出したいと思うことがあるが、安楽死によっては、その状況から抜け出すことはできない。


*でも末期患者の場合なら、安楽死を正当化できませんか?

 死にかけているのなら、死を早めることにどういう意味があるのかい? 自然に死なせてあげなさい。


*おそらく、苦痛を短くしてあげるためでしょう。多くの末期患者が耐え難い痛みを抱えていますから。

 ならば、痛みを緩和してあげなさい。だが、命を途絶えさせてはならない。


*では、永く昏睡状態にある場合はどうですか? その場合には安楽死を弁明できますか?

 いや、その場合でも擁護できない。人が肉体生を終え、この世を去らなければならない時には、霊界から助けが来て、なるべく早く身体から離脱できるようにしてくれる。でも肉体にまだ生命が宿っているのなら、その人生にまだ意味がある、ということだ。なぜなら、寿命が来て魂が肉体を脱ぐ瞬間が訪れたら、君たちが何をしようとも、その人の旅立ちを避けることはできないからだ。


*中絶について話しておかれることはありますか?

 このことについては前作で深く取り上げているので、ここで繰り返すのはやめておこう。犠牲となる胎児の顔を見ることもなく、その苦しみがわからないとしても、妊娠中絶が殺人であることに変わりはない。空襲を命じる者たちは犠牲者の顔を知らないが、それでその罪が軽くなるわけでないのと同じことだ。
 胎児に宿った魂は、拷問されて殺される人と同じくらい苦しむのだ。そんな苦しみを与えずに済めば、自分自身の子どもの死刑執行人となって、苦悩することもない。

 生命を尊重するのだ。生命は、進化のために与えられた非常に貴い天の恵みである。殺人、戦争、死刑、自殺、安楽死、中絶といった、どのような形であろうと、またいかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。そうすれば、自分自身のためにも、他の人のためにも、多くの苦痛を回避できる。



関連記事

トラックバック

http://mintmk.blog.fc2.com/tb.php/356-61cfb069
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

もうひとつの地球 «  | BLOG TOP |  » 「美しき緑の星」を観た人のオーラに変化が?

美しき緑の星

💛 ご案内 💛

最新記事

QRコード

QR

RSSリンクの表示

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。