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2018-09

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無常の目撃こそがバランス

久しぶりの、ほっこりした時間がやってきました。

何だか、今年ほど目まぐるしい年はないです(;'∀') まだ3ヶ月半あるけど(笑)
こうしたゆったりできる時間がもてることが、とっても有り難い。 
以前は当たり前だったけど、今は本当に嬉しい時間です^^

自治会の方も、敬老会や運動会を控え、混乱する頭になんとか言い聞かせて、
ひとつひとつ準備を熟しています。
そんな中でも先日は、氣経絡調整師なる2日間の講習を終え、無事終了。
他にも整体で骨格の調整に通い始めたりと、なかなかの目まぐるしさです。

なのでようやく来れたここでの時間は、
ちょっとした贅沢な「おかげさま」を感じながら書いています。



畑で野菜をつくるようになって、改めて思うことは、
決して手を掛けた自分がつくっているのではなく、
大地に生きる微生物さんやお水やお日さま、そして何よりお野菜さんのいのち。
それらが活かしあって稔り、私は収穫させてもらうことが出来るのですよね。

私自身も、どんなに忙しいとか楽しいとか心配とか、目まぐるしく日々を過ごそうと、
自分の考えや努力などでは到底及ばない、呼吸や血液の流れや神経の働きのような
目にはみえない無意識下で支えられている、仕組みそのものが無ければ、
こうした日常の悲喜こもごもさえ、味わうこともないのであります。

また先日はあることで、どうしよ~と思うことがあったのですが、
ひとつ前に進むと、そこに次の道標があり、更に進むと次の情報が用意され、
また進むという具合に繰り返されたそこには、はじめにあったトラブルのおかげで
更に良くなるという、まるで暗号のような仕掛けを感じていました。
そしてその仕掛けは、誰一人元々は知らなかった4人の方のおかげの連鎖でした。

おかげさまであります^^
嬉しくなっちゃって、今日は味噌パンを焼きました。
お味噌と黒ごまの香ばしい匂い。皆さんにお届けしたい(笑)
なぜか嬉しくなると起きる習性で、何かつくりたくなる。

でもかつては「ハァ…やっとこ私の時間できたぁ…私の時間が。今日は何もしな~い」 
とかって、自分の殻に戻って息抜きタイム味わってた。
そうやってバランスとらないと、なにか息切れでもするかのように。

あの自他を隔離した殻と、自分だけのために欲しかった静かな空間は、
いったい、何処へ行ったのでしょうか。

いえいえ、何処にもいってないのです。 
そもそも欲しかった空間にいた。ってことに、気がついていなかっただけ
だったのです。
近頃はハードな状態が続くと、「……ステキ( ;∀;)」 とか思う自分が恐いです。


そんな具合だから、優先するものごとが多くて、
なかなかブログを書けないワタシであります(*_*;

DSCF9051 (640x480)



さて、先日読んだ osho のお話しが、とてもしっくりくるものでした。
ある人が oshoに質問をし、それにoshoが答えます。

---------------------
質問
バランスの取れた生活のコツについて話してください。
私は極端な体験をすることが多く、 少しの間も中道に留まることがないのです。


osho

生は極端の集まりで構成されている。
生とは両極端の緊張だ。
真ん中に永遠に留まるということは、死を意味する。

中道とは理論的な可能性に過ぎない。
時には真ん中にあることもあるが、それは単に通過点としてだ。
中道にあることは静的な状態ではない。

それは動的な現象だ。

だから左から右、右から左へと動き続ければいい。
それこそが真ん中に留まる唯一の方法だ。

極端を避けないこと、
そしてひとつの極端を選び取るのもやめることだ。

両方の極に開いていなさい・・
それがコツ、バランスを取る秘訣だ。

ある時はすっかり幸福になって、またある時は徹底的に悲しみなさい・・
どちらにも、それなりの美がある。
無選択でいなさい。

そして何が起ころうと、どこにいようと、右か左か、
真ん中にいようがいまいが、その瞬間の全なるままを味わいなさい。

幸せな間は踊り、歌い、楽器を奏で、幸福でありなさい!
そして悲しみがやってくる時は・・悲しみは必ずやってくる。
避けることはできない。
もし避けようとするなら、幸福になる可能性そのものを破壊するしかない。

昼は夜なくしては存在できないし、冬なくして夏はない。
そして死なくして生はない。

この両極性をあなたの存在に深く浸透させなさい・・
それは避けようがないのだから。

唯一の方法はどんどん死に近づいていくことだ。
死人のみが恒久的な中心に留まれる。

活き活きとした人は絶えず動いている・・・怒りから慈悲へ、慈悲から怒りへ。
そういう人はその両方を受け入れるし、どちらにも同一化しない。
超然としていて、しかも深く関係している。

彼は水中の蓮の花のように在る・・
水の中にいてもなお、水がそれに触れることはない。
真ん中に留まろう、ずっとそこにいよう・・
そうした努力それ自体が、あなたにとって不必要な心労を造り出している。

永遠に中道に留まろうとする欲望こそ、最低の種類の極端だ。
なぜならそれは不可能だからだ。

古時計のことを考えてみなさい。
もし振り子をちょうど真ん中で押さえたら、時計は止まってしまうだろう。
時計が進むのは、振り子が左から右へ、
右から左へと動き続けるからに他ならない。

振り子が真ん中を通るたび、ほんの一瞬だが、中庸の瞬間がある。
美しいじゃないか!あなたが幸せから悲しみへ移るとき、
ピッタリ真ん中に、全き静寂の瞬間がある。

それも味わいなさい。
そのすべての局面において生を生きることだ。
そうしてはじめて、生は豊かになる。

そもそも、どうして真ん中に居たいなんて思うのだろう?

私たちは生の暗黒面に怯えている。
私たちは悲しみたくないし、苦悩したくない。
しかしそれは不可能な話だ・・
そうしたら歓喜の可能性もなくなってしまう。

何世紀にも渡って、それが僧侶のやり方だった。
ただ苦悩を避けるために、すべての薔薇を滅ぼす用意がある。

しかしそれでは、その生は平坦だ。冗長で退屈だ。
生気がなく澱んでいる。本当には生きていない。
生きることを恐れている。

Ying-Yang.jpg


生は両方だ。それはひどい苦痛と大きな喜びをもたらす。
それは同じコインの二つの面だ。
一方を手放すなら、もう一方も手放さなければならない。

たとえば、苦痛を手放して喜びをたくわえることができる、
負を避けて正だけを得ることができるなど、途方もない誤解だ。
そんなことは物事の本性からして不可能だ。

正と負は避けようもなく一緒、分かつことのできない一体だ。
同じエネルギーの二つの様相なのだ。

私を理解する人たちはその二つを両方受け入れなければならない。
私はあなた方に、全く新しい洞察を与えている。

すべてであれ!

だからあなたが左側にいるとき、何ひとつ逸してはならない・・
味わうがいい。
左にいることにはそれ自体の美しさがある。

右側にいるときには、それは見つからない。
場面も違っている。

そしてもちろん、真ん中に在ることにはそれ自体の静寂、
平和があり、どんな極端の中にもそれは見つからない。

だから、とにかくすべてを楽しみなさい。
あなたの生をどんどん豊かにし、何ものにも執着しないことだ。
可能な限り、すべてのやり方で生を生きなさい。

対立する一方を選ばないこと。
そして真ん中にいようと努力しないこと。

私はあなたに中道を教えない。
私は全道を教える。
そうしたらバランスはひとりでにやってくる。

そのときそのバランスには、途方もない美と優雅さがある・・
あなたは無理にバランスを取ろうとはしなかったが、
バランスはやってきた。

優雅に左へ、右へ、真ん中へと動いていくことで、
ゆっくりと、バランスは、あなたのもとへやってくる。
同一化しないままでいるからだ。


悲しみがやってくると、あなたはそれが過ぎ去ると知っている。
そして幸せがやってくると、あなたはそれもまた過ぎ去ると知っている。

留まるものはない。すべては過ぎゆく。
たったひとつ、いつでも残るのはあなたの目撃だ。

この「見ている事」がバランスをもたらす。

その目撃こそがバランスだ。

<ここまで>
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